鹿児島 松原神社公式HP

再発見!地域の歴史・偉人 ~境内の史跡を通じて~

全国には約8万社もの神社があり、それぞれ永い歴史の中で地域の平和と安寧を見守り続けています。こうした神社の境内や社叢は「鎮守の杜」として人々に親しまれ、ご神域の清浄を保つとともに 古くからの自然や様々な史跡の残る「郷土のタイムカプセル」というべき場所にもなっています。
ここでは当社境内にございます郷土の歴史・偉人に関わる石碑等をご紹介いたします。

 

 

・大中公三百五十年祭のおもかげ

当社の入り口には石造りの社号標が据えられている(写真の一番手前)。これは約百年前、大正九年に行われた御祭神の没後三百五十年祭にあたり建立されたものである。この三百五十年祭にあたり、貴久公は「従三位」を追贈され 神社も「県社」へと昇格した。当時の新聞記事によると島津公爵、御一門をはじめ県知事参向のもと祭典が執り行われ各種奉祝行事に街は賑わったという。また長谷場の墓地、鶴嶺神社においても同様に知事参向のもと奉告祭が斎行され、官民挙げての盛大なお祭りであったことがうかがえる。社号標に刻まれた社名は祭典委員長の山本徳次郎の手になるもの。山本は南洲祠堂(現在の南洲神社)の常設にも尽力した人物。

 

・「洋才」を用い「和魂」を重んじた斉彬公

参道沿い、ちょうど御本殿を正面から見上げる場所に一基の宝篋印塔が据えられている。表には「英徳良雄大居士」の法号、島津家二十八代斉彬公の鬢髪を納めていた鬢塚跡である。「島津に暗君なし」と言われる中にあって特に名君と評される斉彬公は、西洋の先進技術をいち早く取り入れたことで知られる。一方、島津家「中興の祖」である当社のご祭神 大中公(十五代貴久公)の事蹟にも学び その精神を範として藩政にあたられ、菩提寺であった南林寺(松原神社の前身)にも参詣された。公はその死に際して「亡骸は福昌寺(島津家歴代の菩提寺)に、遺髪は南林寺に納めよ」と仰せられ、この遺言に従って安政五年にこの鬢塚が建立されたと伝わる。以降、薩摩の若き家老 小松帯刀などが大中公・英徳公の両殿を度々訪れその徳を偲んだという。

 

・「見事ッ探元!」近世薩摩画壇の真髄

参道の中ほどに、薩摩の御用絵師木村探元の遺徳を顕彰する碑がある。探元は城下で小濱常慶や坂本養伯に学んだ後、江戸で狩野探信に師事した。 鶴丸城の大火に伴う本丸再建の際には、齢三十歳を待たずして襖絵や天井画を任されるなど若くから画才を発揮した。探元は狩野派の伝統的な筆意に、雪舟に代表される水墨画の洒脱さを取り入れ独自の画風を確立した。禁裏にも召し上げられるほどその名は音に聞こえ、彼の絵を評して「みごったんげん(見事探元)」という言葉が生まれたほどであった。碑文の撰・書は鹿児島出身の日本画家小松甲川。その他市内ゆかりの地としては、平田橋のたもとに建てられている生誕地を示す碑が挙げられる。

 

・甲東公 灯籠に込めた報恩の誠

西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新の三傑に数えられる大久保利通が明治二年に奉納した灯籠一対。利通の父 大久保次右衛門は、斉興公の継嗣事件(高崎崩れ・お由良騒動)に連座し喜界島への遠島処分となった。利通は南林寺の大中公社(島津貴久公の御霊廟)に日参し、藩からの赦免を祈請したという。その願いが通じたものか斉彬公が藩主になると次右衛門は帰鹿を許され、利通自身も謹慎処分を解かれ復職を果たした。その後 維新の大業を果たした利通はしかし、この時受けた神恩を忘れることはなく南林寺が松原神社に改まるに際し、感謝を表してこの灯籠を寄進した。