鹿児島 松原神社公式HP

知っていますか?郷土の伝統行事

日本には地域に根付いた伝統行事が数多くあります。 そういった行事は様式や形態は様々ですが、どれもが生への畏敬、自然への感謝、人への慈しみから成り立っているものです。

こうした有形無形の「伝統」の中には、物質的な豊かさの一方で失われてしまったものも少なくありません。 しかし近年、 世界に開かれた社会の中で、生まれた国や育った地域の伝統や文化というものが自身のルーツとして、特に若い世代を中心にその価値を見直されつつあります。

ここではかごしまの伝統行事を紹介しています。 今一度皆さまが身の回りの行事に目を向けられ、ご先祖の精神をご自身の中に、あるいは子供や孫の世代へ遺していただけるよう願っております。

 

 

 

七草祝
正月6日をムカドシ、正月7日をナンカ正月とも7日ン節(ナンカンセツ)ともいい、いろいろな行事が集中しています。6日、7日は鬼など厄神を追い祓う行事が主になっています。

7日正月には若菜打チといって、セリなどの七草を切盤において包丁で切りながら「日本の鳥と唐土の鳥と──」と唱える習慣がありました。この若菜を入れて作った7日ン雑炊を7日の朝に食べ、数え年7つの祝いをします。

その年の春4月から小学校にあがる子供は晴着をつけ、家族と共に神社(氏神様・崇敬する社)に詣で七草祝の祈願を受け神々の御霊の恩頼(神々の御守・導きの力)をいただき、膳に椀をのせて持ち、親類や近くの7軒の家を回って七草雑炊をもらって回ると健康に育つといいます。神々の御加護を頂き、かつ7軒の雑炊の力で7歳の子の厄を祓い、無事に育った感謝と今後の成長を併せて祈念する祝いです。

 

六月灯
旧暦6月(現在は主に新歴7月)に県内の神社で、それぞれ日を定めて行われる夏祭りです。「ロッガッドー」の呼び名で県民に親しまれています。鹿児島市などでは、7月に入ると毎晩のように市内の数ヶ所で催され、次つぎに月末まで続きます。

氏子の家では燈籠の木枠を保存しておき、さまざまな絵や文字を書いた和紙をこれに張りつけて、神社に奉納します。神社ではこれを境内に張り渡した綱に吊って灯を入れます。町内会などで奉納する大型の燈ろうもあります。当日は奉納の芸能があったり、夜店が出て賑わっています。

由来については島津19代藩主光久公が上山寺新照院の観音堂を造立して参詣した折、たくさんの燈籠をつけさせたので、だん家でもこれにならって燈籠を寄進したのが始まりと言われています。また他方、「六月ノオツメアゲ」といって早馬神や鎮守様などにお燈明を上げ、牛馬の疫病祓いや田の病虫害駆除を祈る習わしがありました。こうした民間の行事が統合、洗練されて現在のような六月灯の祭りになったとされています。

 

内神祭
祭はほとんどの例で旧暦11月(霜月)のきまった日があり、これをシモツキマツリ(神祭り)ともいいます。内神祭りの一般の形はウッコ(内子、門内神では門の全戸、その地域に入りこんだ人を加えることもある)が集まり、祠の屋根をふき替えたり、掃除をし、御衣替え(おきんかえ)といって神体の石に白紙で作った着物を着せ替え、苧の帯をします。

また「シベカエ(御幣替え)」といって家々の全部の御幣を新しく作って配ります。宿は内子の家を順回り移るもの、クジとりで決めるものなどがあり内神田があって宿がそれを耕作し祭り用とする例も多くあります。

シトギと赤飯は内神祭りに欠かせない食べ物で、これを神に供えて宿で小宴もします。近隣の子供が宿に集まってきてシトギ、赤飯を木の葉にのせて少しずつもらう風習があります。

 

曽我どんの傘焼き
曽我兄弟が建久4年(1193年)5月28日(旧暦)富士裾野の陣屋で父の仇工藤祐経を討った兄弟の友愛と孝心を偲び、忠孝の精神を修養するための行事です。

元来は『曽我物語』を夜を徹して読んでいたようですが、明治以後の学舎では、稚児が古い雨傘を集め山のように高く積み上げ、日が暮れると火をつけ、日が赤々と舞い上がる周りを、裸の二才(にせ)や稚児たちが曽我兄弟の歌をうたいながら回り歩くのが現在行われている行事となっています。

 

赤穂義士伝輪読会
赤穂四十七士が元禄15年(1702年)12月14日(旧暦)純忠至誠の精神に基づき、主君の仇吉良上野介義央の首を討ち取った日を記念して当日の夜行いました。赤穂四十七士の武士道精神を薩摩武士の精神涵養に役立たせるとの目的で行われた行事です。

当日の夜、各座元に集まり『赤穂義臣伝』を論読しました。15巻におよぶ赤穂義臣伝の論読は、日暮れに始まり夜を徹して行われ、夜半頃には、座元より鶏汁が出されたりしました。また、栗粥を黒糖で煮た栗なっとうも多く食べられたようです。後世、学舎や学校でも赤穂義士を偲び論読会や物語りなどの行事が行われるようになりました。

 

妙円寺詣り
島津義弘公以下が、関ヶ原の合戦で敵陣の中央突破を行い山岳地帯を三日三晩の苦闘のすえ鹿児島に帰った苦闘を偲び、平和な世に士気を高め心身を鍛錬する目的で始まりました。

鹿児島城下士たちが鎧兜に身を固め9月14日(旧暦)夜、伊集院徳重神社(島津義弘公菩提寺妙圓寺)までの20キロの道のりを歩いて参拝します。道中では『チェスト(行け)関ヶ原』という勇ましい掛け声と当時を偲ぶ歌を高らかにに歌いながら参拝するのが恒例となっています。

明治時代には子弟の教育上、十七学舎が妙圓寺詣りを実施し、また学生も参加するようになり、小学校5年生以上の男子が全員参加で行進し夜を徹して参拝するようになりました。戦後しばらくの間は細々と行われていましたが、年と共に盛んに行われ近年の盛況となってきています。現在は10月の第4日曜日に行われています。